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【感想】アンリー・デュナン 赤十字の創始者_伝記:ピエール・ボワシェ著

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 都立図書館で思わぬものを発見した。赤十字ということばに思わず立ち止まり、ついに兼ねてから読みたかったものに出会った。しかも赤十字創設者アンリ・デュナンの伝記で100ページほどだったが、紙面が大きくて文字は正方形に整えたように並び、大変に読みやすい。ずっと読んでいたいほど素晴らしく簡素で完結で、さらに無駄のない、持ちやすい装丁だ。購入したいが、検索してみるともうこの世では国会図書館にしかないらしい。とても貴重な本だった。
感想というよりも、この本で読み理解したものと、追加で調べたものををここに書き連ねる。

 

中立とは、関わらずに何もしない、無関心でいることではない。
中立とは、両方に関わり、両方に踏み込んでいく権利を得ることである。

 


赤十字創設者 アンリ・デュナン

1828年スイス・ジュネーブに生まれる。終盤に書かれていた人生の大筋。
①何ひとつ目立つことなしに行われた内的な準備と研究と施策と活動の34年間。
②「ソルフェリーノの思い出」出版からジュネーブ銀行倒産の名望と成功の5年間。
③貧困と放浪と隠遁生活の28年間。
④名声を博した最後の15年間。
最後の15年間では、ハイデンの病室12号室から一度も離れることはなかった。


「中立」という概念を生み出した功績 [ 中立と博愛 ]

攻撃されるべきではないすべての人を表示するものであった。この標章は、これをつけている者は攻撃されることはなく、その者にデュナンが「中立」と呼んだ新しい、法的な身分を授けるものであった(P56)

 

●アンリー・デュナン、1828年スイス・ジュネーブで代議士の父と名門家の出の母をもつ家庭に生まれる。プロテスタントの家庭で厳しく育てられた。銀行家になるべく、名門家としてカルヴァン学校に入学するが、落第が続き13歳で退学することになる。

●このころのジュネーブでは経済発展が最も優先されている。例えば会社を倒産させることなどは「悪」とされ、経済活動として金儲けをすることは「善」とされている時代背景だった。

●18歳で、自分の余暇を、貧しい人や体の不自由な人などを援助することに使い始める。20歳で、ジュネーブの監獄で囚人に朗読をはじめ日曜の午後はこれに費やすようになる。
母親曰く、「戦争で傷ついた者にかかわるずっと前から、平時に運命のいたずらで打ちのめされた社会の犠牲者の世話をはじめていた」とデュナンのことを語る。

●デュナンは銀行員となった。銀行員として働きながら慈善活動にも力を入れ交流を広げる。

●26歳で、父の敷いたレールから出て銀行を辞める。アルジェリアに渡り製粉会社を設立する。

万国博覧会のためにフランス・パリに集まっていた友人たちと共にYMCA(世界基督教青年会)を発足、設立した

●製粉会社が軌道に乗らず、デュナンは増額投資をして事業拡大を図る。その事業拡張の方向性の道筋を立てる直訴をするために、ルイ・フィリップ軍の征服下アルジェリア(アフリカ大陸)へ向かってジュネーブを出発した。だが思うように役人にも会うことができない。それでも諦めず、今度は地位の高い役人に会うためパリに向かうが追い払われる。残された会うべき人はただ一人になった。直訴するために会うべき残ったその人 ”ナポレオン三世” を追って、パリから伊・ロンバルディへ向かう

●戦争によって荒廃したこの地は「ウォータールーの戦い」で大殺戮が起きて、その翌日にそこから近い北イタリアのソルフェリーノにデュナンは滞在した。翌日に到着したため、まだ負傷兵があちこちの道端に転がり、腐食臭が漂うほどのひどい惨状を目の前にした。デュナンはこの街へ事業許可を得るために来たはずだったが、デュナンの中でその目的は、不眠不休の負傷兵の救護へと変わり始める。街に溢れかえる負傷兵を救う活動をし、努力を尽くし、「苦痛は万人にとって等しいものであり、これだけがいま解決すべき問題なのだ」として、フランス敵兵をこの地でも救い『トゥティ・フラテリ Tutti Fratelli !! 』(われらは皆兄弟!)と繰り返し言い、周囲の人たちをフランス兵を救うことへのためらい(敵兵を救うこと)を取り払うことに成功させ、兵士を助け続けた。

●本来の目的だったはずのナポレオン三世との面会は、結局できなかった。ただ、戦いの恐ろしい記憶だけがデュナンに残る。その記憶と経験をジュネーブに戻ってから一冊の本に書き上げた。その書き上げた書籍を自費出版で1600部刷り「ソルフェリーノの思い出」として出版した。そして、この本が自然主義文学の最高傑作のひとつとされて世の中から喝采を得ることになる。この本の中で、デュナンは世論に訴え、”国籍国境を超えたひとつの原則”を定めることが必要だと唱えた。

f:id:volvox60:20191201230726p:plain 写真wikipedia <A Memory of Solferino>から

●この本に共感したグスタフ・モワニエがまずデュナンの元に来て、その思いを実現させようと言う。そして共感した人間が5人集まって「5人委員会」となり、ジュネーブにデュナンの考えを実行に移すための小委員会が設立された。

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●このころアルジェリアで起業したデュナンの製粉会社が倒産する。ジュネーブでは倒産は「悪」とされている時代で、5人委員会に迷惑をかけてはいけないとしてデュナンは自らこの委員会を去った。

●1863年、第1回国際会議がジュネーブで開催された。第8条においては奉仕看護者はすべての国において同一の標章、すなわち白地に赤十字の腕章をつけるものとするとして赤十字マークが採択された。このマークはスイス国旗の赤地に白十字を逆転させたものである。会社を倒産させたデュナンは、この調印式に出席することは叶わなかった。(国際人道法:ジュネーブ条約の誕生)

●1864年、ジュネーブ条約(第2回国際会議)で、その標章をつけている人と共に、それを掲げている車両と建物にも特殊な地位が与えられることになった。
 これら10か条から成る短い条約の誕生は、人類の歴史の中で画期的であった。これにより、全人道法と、戦争への規則に関するあらゆる協定の道がひらかれた。ヘーグ条約とジュネーブ条約が、これから生まれた。

●1867年、ジュネーブ銀行が倒産。デュナンは多額の負債を抱えた上に仲間を裏切ったという責任まで負わされた。その結果デュナンは路上生活をするほどにまで転落する。

●1870年、フランスとプロシア軍の間に戦争が起きる。普仏戦争。パリに送られてきた負傷兵を訪ね、デュナンは彼らを慰問した。死者を確認できるようにするために「認識票」の方式を導入したり、制服を着ていない志願兵や不正規軍が狙撃されないように、彼らにも戦闘員資格を与える問題に積極的に動いた。つまり、ゲリラ軍の保護も認められるようにデュナンは努力をしていた。

●だがその行動が、当時ドイツの国際スパイとして暗躍して有名だった「インターナショナル」ではないのかという疑いの目がデュナンに向けられたりもした。

●平和は戻ったが、デュナンの元には監禁不能な100万フランの債権だけが残った。この時夢として掲げていた国際図書館の計画は諦めざるを得ないとデュナンは理解した。

●1876年、「5人委員会」は「赤十字国際委員会」に改称される。

●だが宮殿に呼ばれ、ジュネーブ条約を海軍兵にまで広げる草案を準備するように依頼される。だがこれと同時に、デュナンは5人委員を辞任する意も表明し、それは倒産によった名誉失墜であり、倒産の責任に大して支払わなければならない対価でもあった。

●デュナンが抱いてい大きな計画の二つ。「ユダヤ人のパレスチナ入植」「捕虜の保護」をデュナンは唱導して廻る人間となった。
パリの人々は、デュナンの意向には耳を貸そうとはしなかった。

●1887年、何ひとつ持たない旅人が国境を超えてスイスに入る。このときデュナン59歳。身体は弱り果て、字が書けないほどまでに手はただれ、みずから「被生活保護者のように埋葬されること」を願うような状態で、ハイデンの病院に運び込まれた。その後、デュナンがこのスイスの病院の12号室にいることが、とある新聞記者によって発見される。

●1897年、第1回シオニスト会議でデュナンを先駆者としながらも、デュナンには喝采だけがこの会議で贈られることとなった。今日では、アンリーデュナンと命名された木がエルサレムに在る。
シオニストシオニズム信奉者)】
 世界中に散らばっているユダヤ人をパレスチナの地に戻し、ユダヤ人国家建設を目指していたユダヤ人民解放運動。この結果、1948年にイスラエル国家が再建された。

●1901年、ノルウェー国会で第1回ノーベル平和賞を受賞する。

●1910年、82歳で生涯を閉じるまでこの病院で質素な生活を貫いた。

 

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